地中海を越えて

生活記録.自己表現練習.執筆リハビリ

その他_暮らすということ

最近「anone」というドラマを観ている。

生きることの意味や温かさなど、多分そういうことを伝えようとしている作品だ。

救いようがないと感じる部分も多少はあるけれど、生きていたらそういうこともあるよなあなんて。

ある作中の台詞が印象に残っている。

 

「生きなくてもいいじゃない。暮らせば」

 

生きなくてもいい、なんて素敵な言葉なんだ。

生きよう、生きなきゃ、最近はそういう焦りに駆られていた気がする。

もっと根本的な部分を見落としていた。

〝暮らし〟だ。

 

私の思う暮らしとは、

・日常を噛み締めることに重きを置く

・なんでもない瞬間を愛おしく思える

以上の2点をキープ出来る状態のことだ。

私の場合は星野源の楽曲を聴いていると、大抵そういう状態に近づくことが出来る。

起床してから久しぶりに聴いてみているが、内臓を絞られているような痛みを感じる。

暮らすことよりも生きることに走っているサインだ。

段々と自分の中にすっと歌詞や音が染み込むようになってきていて、こういうツールは大事だなと痛感している。

 

自分にぴったりな〝暮らし〟について、少し探求心が湧いてきた。

そうだ、確か、こういう感じだった。

フラットで、暖かくて悲しくて、それが心地よい感覚。

うん、生きなくてもいいな。

暮らしていこう。

肩の力を抜いて、気楽にっていうのは、多分そういうことだ。

雑記_黒百合ハーバリウム

夜は魔物が住んでいるからね。

もしかしたらそれは、彼の口癖なのかもしれない。

 

 

真夜中は、静かだから苦手。

気がづくと沢山のことを考えている。

主に彼のことを。

絡めた指から伝わる温もり。

見上げた横顔の眩しさ。

時折見せる笑顔の幼さ。

心地よく感じてしまう雑踏。

ふと見上げた空の美しさ、そんなことを。

いっそ全てを摘んでしまいたい。

きっと素敵なハーバリウムが出来るから。

そう思ってしまうほどの、不可侵な瞬間のことを。

 

 

瞼を閉じる。

時計の秒針はもう、私を繋ぎ止めることは出来ない。

瞳を閉じて相手を描くことが出来るなら、それだけでいい。

そう、あの歌手は歌っていたけれど。

半分正解、半分不正解といったところね。

もう少しだけ、強かでいられたらいいのに。

 

 

こんなときは、彼の声を聴きたくなる。

 

夜は魔物が住んでいるからね。

心配しなくても居なくならないから。

安心して眠っていいんだよ。

大丈夫だから、ね。

 

 

こんな期待なんて、するだけ無駄なのに。

私は今夜も、彼で安心を得ようとしている。

ありきたりな言葉を求めている。

全く呆れる、呆れてしまう。

少しだけ口角を上げてラジオを流した。

深夜のラジオ番組は、勇者の酒場みたいね。

 

 

夜は魔物が住んでいるからね。

全部魔物のせいなんだ。

その魔物は、僕らみたいな人間を好むけれど。

大丈夫だよ。

僕は勇者でもあるからね。

......何を心配しているの。

君の魔物に、僕が負けるとでも?

分かったなら、ほら、目を瞑って。

心配しなくても居なくならないから。

安心して眠っていいんだよ。

大丈夫だから、ね。

 

 

吸えもしない煙草に火をつけた。

ラジオ番組の司会者は、今夜も視聴者の孤独を昇華する。

魔物の巣窟。

勇者の酒場。

勇者が勝つためには空瓶と流動パラフィンが必要ね。

魔物の正体はきっと黒百合だから。

日記_2019.8.26 ✍︎

起床した時、私は自分の状態に拍子抜けした。

体のだるさが軽減されていて、あの特有の精神的不快感もほとんど感じられなかったからだ。

 

気持ち的には「もう大丈夫!出勤出勤!」という感じなのだが、ここで一度ブレーキをかけておかないと痛い目を見るのは何度も経験している。

職場に連絡をしたところ、出勤は水曜日からとなった。

 

あと2日。

明日は精神科の受診があるが、今日は何も予定がない。

そろそろ現実に戻らなければと、今日から少しずつ生活を立て直すことにした。

 

・布団をたたむ

・日中寝ない

・お風呂に入る

・勤務時間と同じくらいの時間外出する

・ある程度疲れてから帰宅する

 

今日のラインナップはこんなところだ。

布団をたたんで、面倒だなあと一服。

最近気温が少し低くなった気がする。

シャワーの温度はいつもより少し高めにした。

何もする気が起きなくても歌っていれば元気になることもあるので、とりあえずカラオケボックスへ。

結局2曲ほどしか歌っていないのにお会計を済ませてしまった。

珍しく歌う気になれなかったな、あと3時間パックにしたのはアホだった。

時間が有り余っているので、雑貨や本を眺めた。

本はジャケ買い派なのだが、最近趣向が変わってきている気がする…。

読む気力もないのに3冊ほど買ってしまったので、そのうち感想を書いた記事でも投稿しようと思う。

チェーン店のカフェで食欲を満たし、ネットサーフィンをしつつ煙草を吸った。

大したことはしていないのに、すごく疲れてしまった。

晩酌はコークハイにしようと思い、コーラを購入して帰宅。

過眠期なのも影響しているのか、眠くて仕方がない。

 

ざっとこの記事を読み返してみたが、どこからどう見ても仕事をサボって遊んでいる駄目人間の図である。

まあいいか......。

日記_2019.8.24 ✍︎

煙草を切らしてしまったのでコンビニに向かっている。

雨だ。

まだ8月なのに、雨の夜は冷えるんだなあ。

雨の日は大抵何かに躓いている気がする。

チープな発想ではあるけど、人が流す涙を誤魔化してくれているのかもしれない、などと思う。

 

一つ前の記事に書いたあの変な確信は、少しずつ溶け始めた。

まだ気がつくと泣いていたり部屋から出られなかったりと不安定さはあるけれど、ほんの少しだけ浮上してきている気がする。

恋人の誕生日を祝う日までには持ち直したい、頼むぞ私。

 

昨日。

昨日は色んな人に散々当たり散らしてしまった。

高校時代からの親友とか、最近仲良くなった友達とか、祖母とか、恋人とか、訪問看護のスタッフさんとか......。

何をやっているんだ本当に、ああ。

嫌だなあ、嫌だ。

まず自分の嫌いな部分なんて直視したくないし、相手を罵倒したくもないし、ましてや最近仲良くなった友達に関しては泣かせてしまうし......本当に何がしたいんだよお前は、という感じでしかない。

余裕が無くなるとロクなことが無いのはわかっているのに、余裕を無くしているのは自業自得というか。

普段から少しずつ発散や昇華をしていれば、せめてもう少しマシだったのかもしれない。

とはいえ、やってしまったものは仕方が無いので、まずは八つ当たりしてしまった人達に謝って、今は自分の気持ちを受け止めたり、これからどうするべきかを考えたりしている。

 

仮面。

最近このワードについて思うところがある。

「ある意味ではたったふたりの家族だね」なんて言い合った弟と私。

あの家で過ごすうちに、私達は仮面を被り続けることが常となっていた。

ベクトルは違うけれど、「出来る限り穏便に」と他人の顔色を過剰に伺ったり何かしらの自己防衛を働かせたりしている所は共通だと思う。

誰だって世渡りのために仮面を被ることくらいはあるだろうが、こういうタイプの人間は親しかったり大切だったりする相手ほど何重にも仮面を被って接する傾向にある気がする。

ここから書くことはあくまで私の場合の話でしかないので、同じような日々を送っている人達全てに当てはまるわけではないが。

 

素直でない。

これは昔からよく言われることの中で最も苦しいことのひとつだ。

素直でないことは自覚しているし、このままでいいとは思っていない。

素直になる練習をすることもあるのだが、いざその時になると怖くなり、回りくどい言い方をしてしまう。

そうなると肝心なことがきちんと伝わらないし、状況によっては相手を傷つけることもある。

そもそも素直になったところで「普段のひねくれた受け取り方の上に成立する思考」でしかないため、相手からすれば「なんでそういう受け取り方になるの?」という感じなのだろうと思う。

楽しいことや嬉しいことに関しては、後のことが怖いので保険をかける意味で出来る限りマイナスの捉え方をする。

また、嫌な気分になった時に関しては、それを表に出すことで相手がどう出るかが怖いので押し殺してヘラヘラと笑ってやり過ごす。

そしてそれらは相手の前だけでなく、一人の時も制約として残る。

人が相手となると、素直になることが怖くて仕方が無いのだ。

しかしそんな関わり方をしていれば限界が来るのは当然なので、しばしば特定の相手に向かって爆発する。

相手からしてみれば「普段何も言わないくせに勝手に溜め込んで勝手に爆発されても!」という感じなのだろう。

この記事を書いていて、私はなんだかんだ言いつつも気を許している相手に対して「大抵のことは受け止めてくれる」と慢心していることに気づいた。

自分の思うようにならなくても「やはり人前で素直になるものではない。素直になったところで傷つくだけで良い事なんてひとつもない」という思考に走ればダメージを最小限に抑えることが出来る。

そんな甘えも私の身勝手さを加速させているのだろう。

 

昨夜、恋人と通話した際に喧嘩になってしまった。

素直になれないことや普段押し殺しているものを爆発させたことが主な原因だったと思う。

そもそも不調の時に大事な話をしようとすること自体が無謀なのだが、不調にでもならないと素直になる練習すら出来ないというのが現状である。

会話をしながら「素直にならなければ」と思考を巡らせるのだが、結局回りくどい言い方をしてしまって伝えたいことが上手く伝わらず、焦りや不安に駆られて更に状況を悪化させていった。

そうなるともはや何を伝えたかったのかすらわからなくなってくる上に「私が何も言わなければ穏便に済む」という思考に走ってしまう。

しかしそれではこれまでと変わらない、成長しない、誰とも繋がることが出来ない。

今までなら「はいはい私が悪いですよすみませんね。これからは一切口出ししませんから」と投げやりになっていたし、正直昨夜もわりと投げやりになってはいたが、当然ながらそんな態度は見抜かれた。

素直でないと言われることが苦しいのは事実だが、そう言ってくれる人は私のことをよく見てくれているのだとも思っている。

恋人にも「素直じゃない」「投げやりになるな」と言われていたので、これはある意味チャンスかもしれないと思った。

私の不調がもう少し良くなるまで話は保留となったが、それまでに素直になるための一歩を踏み出せるかどうかが重要だと思っている。

 

「何か問題を起こした際には、自分が先に謝ってしまえば相手の怒る気力を削ぐことが出来る」と知っているので、今までは積極的にこの手段を活用していた。

つまりは作業として謝っていた。

しかし「可能な限り相手のことを考え反省し、自分に素直になって謝る」という人間として初歩的なことが出来ていないのはわかりきっていたので、今日はまずその練習をした。

相手に送るメッセージを打っては取り消すのを繰り返した。

こんな初歩的なことがこれほどまでに難しいなんて。

胃に穴が開いているのではないかと疑うくらいに胃痛が酷く、心拍数は上がっていくばかり。

素直に人と接することが出来る人達はこんな思いをしているのか?凄すぎやしないか。

なんとかメッセージを送信したが、他により良い言い方があったのではなどと考えてしまって気が気でない。

結果は呆気なかった。

「え?これだけで良い方向に進むの?現実?」と画面を確認し直したくらいだ。

 

おそらく、私が怖がっていることのうち、大抵のことは思っているより呆気ない。

こんなに呆気ないことを20年以上も怖がっていたのか。

こういうことに気づいたときの私の顔は、きっとどうしようもなく間抜けだと思う。

 

それでも何かが、例えるなら雨雲のひとつが、すーっと消えていく感覚を覚えた。

きっと大丈夫、少しずつ、進んでいける。

その先には、私が渇望しているような純粋な人との繋がりだって、待っているのかもしれない。

その他_不協和音

仕事はしばらくお休みをもらった。

将来のことは一旦保留にすればいい。

家族のことは弟と話して少し整理が出来た。

恋人のことも自分の中では大方片付いた。

 

つまり最近の積み重なった悩みはある程度解決した。

さて生きていくかという気持ちでもあるのに、脳が勝手に自殺企図を続けるので困っている。

《死ななければいけない。生きることは許されない》

幻聴のような他人格の声とも違うので、自虐傾向にある人格の思考ではなさそうだ。

ではこれは何だ?

《死ななければいけない。生きることは許されない》

聞こえるというより、それが自分の中に居て激しく主張をしているのがわかる、と言った感覚だ。

別にもう波の底からは這い上がり始めているし、私は決して死ぬ気などないのに。

《死ななければいけない。生きることは許されない》

気持ち悪い、言うことを聞いてくれ。

美しくない不協和音みたいだ。

ただただ苦痛で仕方がない。

《死ななければいけない。生きることは許されない》

《死ななければいけない。生きることは許されない》

《死ななければいけない。生きることは許されない》

 

限界だ、本当に無理だ、気持ち悪い。

誰でもいい、頼む、助けてくれ、救ってくれとは言わないから!

日記_2019.8.23 ✍︎

色々と済ませて海に行こうと決めたはいいものの、公共の交通機関を利用しなければならないので、行くのが億劫になってしまった。

 

たまたま休みだった長い付き合いの親友と通話して、どうでもいいことから真面目なことまで話した。

一通り泣き言を言ったあとでふと「屋久島に行きたい」と思った。

もともと老後は屋久島に住むと数年前から決めていたのだけど、仮にその計画を前倒しにしたら?と移住するにあたってのことや物件や仕事などを探してみた。

ここ最近で一番楽しい時間だった。

仕事も目標も恋人も全て捨てて隠居したい。

 

 

よく「やりたいことや目標があって、それに向かって頑張っててえらい」と言ってもらえる機会があるのだが、私はそう言われるのが苦手だ。

しかし牽制のために自分の現状や先のことを提示しないと安心出来ないので、教えないということも出来ない。

なぜ苦手なのかというと、別に期待なんてされていないのに、応えなければと思ってしまうからだ。

褒められれば褒められるほどにその気持ちは強くなって、やりたいことに対する純粋な気持ちがくすんでいく。

苦しくなって息が出来なくなって。

本当は「私はそんなによく出来た人間じゃない」と叫びたいし、自分に大した向上心がないことをわかって欲しい。

 

今やりたいことは、果たして本当にやりたいことなのだろうか。

くすみきってしまってそれすらわからない。

 

目標に向かってそれなりに努力するとか、自分の欠点を改善するとか、そういうことに疲れた。

 

しばらく仕事を休ませてもらえることになった。

いつまでこんな状態が続くのかはわからないし、普段は「限界まで落ちたらあとは這い上がるだけ」だと思っているのに、今回は1ミリもそんな気持ちがない。

死なないのなら、きちんとやることはやって生活しなければいけない。

1秒前は死ぬし、未来は勝手に今になる。

あまりぐずぐずしていられないな。

日記_2019.8.22 ✍︎

先週から頭の中を支配している希死念慮と、一晩中向き合っていた。

死について考えていると、短時間でこれでもかというくらい不安定になる。

しかし、なぜか考え込むことによって安心するようで、結果としていつも「死ぬのはまだ先でいいか」と思ってしまうのだ。

 

最近は何か大きなことが起こったわけではないが、よく考えてみると小さなことが限界まで積み重なっているように思えた。

自分のこと、病気のこと、家族のこと、仕事の事、将来のこと、恋愛のこと、etc…

普段なら難なく解決できることも、条件下によっては苦しいものとなる。

 

 

まず、私は苦しみの原因をひとつずつ覗き込んだ。

涙が止まらなかったけれど、そんなことは気にならなかった。

 

次に、どうすれば確実に死ねるかを考えた。

これまでの失敗から、詰めの甘さが原因であることは明白だ。

どこを改善すれば死ねるかなんて、わかりきっている。

 

そして、死ぬまでにやりたいことを考えた。

死後は屋久島に散骨して欲しいけどそれは無理そうなので、死ぬ前に誰にも読まれない遺書でも書いて、小瓶につめて海に流したい。

水の中を揺蕩いながら旅をしてみたいから、それを遺書に託してしまおうか、なんて。

 

最後に、自分の死後のことを考えた。

人間は誰もが誰かの寄せ集めで出来ているので、誰もが交換可能なパーツでしかない。

私の死を悲しんでくれる人はいるかもしれないけれど、時間と共に忘れてきっと元の生活に戻ってくれる。

自分の死後のことは極論他人のことだからと言い放った元恋人の感覚は、もしかするとこんな感じなのかもしれない。

 

 

遺書を書くということは、意外と生き延びるための良い手段らしい。

特に親しい人やお世話になった人に向けて書くと、生きることを前向きに考えるようになるそうだ。

そういった理由で、インターネット上にも遺書サービスは溢れている。

 

擬似的な死を迎えようと決めた。

好きなレターセットを買って、珈琲を飲みながら遺書を書こう。

あとは好きな小瓶に入れて海に流すだけ。

自分の中のものを限界まで抱き締めた上でそっと手放す儀式。

布団から出られるのかは微妙だが、ここで腐っているより何かしら自分が楽になれる方法を試してみる方がマシだろう。たぶんね。