地中海を越えて

生活記録.自己表現練習.執筆リハビリ

その他_闇のバラエティパック

なんとか仕事を片付けて定時で退勤した。

今日は散々だったな。

仕事中に急に涙が止まらなくなって困った。

何があったわけでもないのに、頭の中が勝手に「死にたい」で覆い尽くされる。

夢も目標もやりたいことも理想もあるのに、こんなところで死ぬわけにはいかない。

まだ死にたくない、死にたくないのに!!!

 

こういう日は、慰めて欲しくなる。

恋人に会いたい、抱きしめて欲しい、大丈夫って言って欲しい。

それだけで安心出来るし、生きていけるのに。

 

退勤後、とりあえずカフェで一服した。

助けてなんて誰に言えばいいんだっけ。

危険を察知した友達が時間を作ってくれた。

暖かい。

 

 

 

友達と合流するまでの間に、恋人に連絡をした。

声を聴ければいいと思っていたはずなのに、それが叶った途端に我儘になってしまった。

電話越しに自分がまとまりのある言葉を喋ることが出来ていたのかすらわからないし、振り回してしまった気がする。

沢山のことを喋ったのは覚えているけど、メンタル面が酷すぎて何を喋ったかまでは記憶出来ていない。

おそらく何かをやらかしたんだと思う。

 

そのことに気づかないまま、友達と合流した。

友達とお寿司を食べながら、簡単に状況を説明して相談する形になり、

「こういう時こそ会いたいって言うもんだし、そうしないのは付き合ってる意味あるの?」

と言われ、それも一理あると思った。

やっぱり会いたいという旨の連絡を恋人にしたが、その時かあるいはその前の通話の時かにやらかしたのか、恋人がそのメッセージを見ていることは把握出来たけれど返事はなかった。

 

恋人とのことを抜きにしても何かがつらくて、何度も何度も泣きそうになりながら解散した。

ひとりじゃなくて良かった。

「そういう時は誰かに傍にいて欲しいでしょ」と言っていた友達は、ちゃんとそういう時に誰かと過ごせているのだろうか。

 

帰宅しても家族に八つ当たりしてしまいそうで、少し時間を潰している。

もしかしたら恋人に八つ当たりしていたのかもしれない。

とはいえ出来事を把握出来ていない以上は反省のしようがないし謝りようもない。

 

 

父と恋人は全くの別人なのに、昔のことを重ねてしまう。

恋人に限らず恋愛対象者にはいつも投影している。

「お前、俺がなんで怒っているのかがわからないのか?」

「(正解を言わなきゃ外したら終わりだ)…えっと、○○ですか?」

「違う!なんでそんなこともわからないんだお前は!!!」

という問答を父としていた時と同じ気分になっていて、苦しい。

 

空気が読めないとか察しが悪いとか、そういったことは昔からよく言われていて、私はそんな自分が大嫌いだ。

何か気に障ることをしたのかもしれないと状況を整理しても大抵のことはわからないし、これか?と思ったとしても正解ではないことのほうが多い。

相手が気分を害している場合、理由を聞いても教えてもらえなかったり聞く余地すら与えてもらえなかったりすると、脳内でパニックを起こしてしまう。

最終的に「私が悪いんですねわかりましたはいはい」といったふうに投げ出すので余計タチが悪いのだが、それ以外に身を守る方法がわからないのだと思う。

 

嫌われたくない見捨てられたくない愛して欲しい、そんな気持ちでいっぱいになりながら常に正解を選択している。

おそらくそれは正解とは程遠いし、そもそも正解はない。

亡霊を追い求めている。

そしてそれが破綻した時は、自分の中では全てが終焉を迎える。

ああ、終わった、全部終わりだ、全部全部終わり、また間違えた、確実に見捨てられた、また二番目に深いところから誰も居なくなってしまう。

こういったことを永遠と考えている。

 

 

今日の中でひとつ嬉しかったのは、現在の私が「自分が望む愛が手に入らないなら適当な相手で済ませる」という行動を起こしていないことだ。

自分でもどう受け取っていいかはわからないのだが、今日の昼休憩中、上司から唐突に「愛している」と言われた。

仮に上司の言葉が恋愛的な意味だとしても上司と発展するなんてことは絶対に有り得ないが、私にそんな言葉を掛けてくれる人もいるのかと泣きながら温かさを噛み締めた。

本当は上司ではなく恋人に云われたかったと思ってしまったのは素直に申し訳ないと思っている。

 

 

話が逸れてしまったが、この記事を書いていて痛感したことがある。

私はやはり自分が第一でとても可愛くて自分のことしか考えていないということ。

恋人にも事情や思うところがあるからこうなっているのだろうし、今すぐどうにかしたい私と時間を置きたい恋人では噛み合わないのは当たり前だ。

思いつく限りの起こせるアクションは起こしたのだから、深く気にせずに普段通りの生活をして相手からのアクションを待つというのがベターだ。

 

なんとか帰宅した。

明日も仕事なのだから、入浴を済ませて眠ればいい。

泣きたければタオルケットを被って泣けばいいしね。

精神_毎年恒例のヤツが来た

昨日から携帯を開いた時に数行ずつこの記事を書き、ようやく投稿することが出来た。

全く進まない上に纏まらないし(いつも通り)、下書きを消してやろうかとも思ったけれど、気力が低下している時期は小さなことから達成感を得るべきだ。

誤字脱字が酷く出来る限り修正したのだが、何せ注意力が落ちている状態なので、見つけても許して欲しい。

 

 

盆正月は私の中で最も慎重に過ごすべき期間だ。

私は家族に会った後に軽躁状態に移行し、急に鬱転してしまう。

ここ数年例外なく、だ。

 

やあ、元気かい?

また会ったね。酷いなあ、少しは仲良くしてくれよ。

こんな調子で、ヤツはノックもせずに私の中にずかずかと入り込んでくる。

 

今年のお盆は大丈夫だろうと思っていたのだが、今思えば最近の睡眠状況も心理状態も言動も怪しいところだらけで、自分の考えの甘さに頭を抱えている。

この5年で病気の波が緩やかになってきたことだけが救いだ。

おかげで今回の波の底は、細心の注意を払っていればそこまで深いものにならなくて済みそうな気がする。

感覚と経験に基づいた予測でしかないので簡単に崩れることもあるが、仕事のことや先のことを考えると、ここでどう上手く付き合うかが鍵となってくるのは事実。

 

今までは、鬱転した際に一番しんどいと感じる最初の時期すら自分を奮い立たせて出勤し、結果的にある日パタリと倒れて入院するというのがパターン化していた。

正直過去の私はそうやって「今回も駄目だった」と安心したかったのだと思う。

しかし今回はそれを避けたかった。

今の仕事は自分の将来への投資と同じで、ここで投げ出したくはないからだ。

 

最初の段階で生活ペースを落とすべきだと判断し今日は欠勤することにしたが、それでもやはり罪悪感に押し潰されそうになる。

この微妙な時期は、本当に無理をすれば行けないことはないのでもどかしい。

特にこの仕事は利用者さんと直接関わる仕事なので、欠勤が多くなってしまった場合は利用者さんとの信頼関係に大きく影響してしまう。

とはいえ、出勤してもうつ状態特有の不安や焦燥感に駆られたり希死念慮に苛まれたりして集中出来なかったり、なんとかやり遂げて退勤したとしても自殺企図ばかりしてしまうのは目に見えている。

その結果いつも病院送りになり入院というパターンを引き起こしているので、それだけはどうしても避けたい。

前回のICU人工透析をしながら死の淵を彷徨った件から、私は死について恐怖を抱くようになった。

死にたくないし、まだ死ぬわけにはいかない。

 

そして私の場合は逆のことも危険視しなければならないのだが、詳細を書くともはや別の記事になってしまうので割愛する。

幸い、今の職場は私が精神疾患者であることを知った上で雇ってくれている。

比較的休みやすいとはいえ、休み続けると更に行きづらくなってしまう。

明日は行かなければ。

 

 

こういう時期は音にも敏感になるが、最近の場合は吹奏楽なら聴けるということがわかった。

好きなサウンドに触れつつ明日の支度をしよう。

入浴中は好きな香りに包まれてしまえ。

今日を生き延びたことを褒めてやろうじゃないか。

日記_2019.8.18 ✍︎

昨日の21時から、友達や知り合いと計5時間弱も通話をしていた。

人と関わる時とそうでない時の差がありすぎる。

 

結局朝になってから仮眠をとった。

起床してしばらくはイザヤ書を読んで、集中力が切れたので再びネットサーフィンをした。

 

 

ドラマ「SPEC」について。

学生時代、深夜にテレビをつけると戸田恵梨香が餃子を食べていた。

醤油がついた箸で難しそうな本のページをめくりながら、めちゃくちゃ美味しそうに食べやがる。

そのまま観ているとストーリーも面白かったので、私は餃子だけでなく作品にも魅了されてしまった。

 

このドラマを思い出して、唐突に餃子が食べたくなった。

連休最終日、羽目を外さずしてどうする?

ということで、即コンビニへ。

最初は餃子を出来るだけ買い込むつもりだったのだが、コンビニというのはやはり目当ての商品以外にも目がいくように出来ている。

結局、餃子・カップ焼きそば・からあげ・チューハイを購入。

カロリー爆弾でしかない。

 

とはいえ、美味しいものはカロリーで出来ている。

帰宅してすぐ夕食にしたのだが、美味しい、美味しすぎる。

連休、最高......。

 

お腹いっぱい食べられるって、しあわせだなあ......。

 

 

そういえば父は、何かにつけて私たち家族をバイキングに連れて行ってくれた。

愛情表現も謝罪も激励も苦手だった父だが、おそらくこの行動にはそのすべてが含まれていたのだと思う。

決して裕福ではなかった家庭なので外食をすることは珍しく、するとしても毎回同じ店でバイキングだったので、私たちは割とがっかりしていたのを憶えている。

多分父は、何よりお腹いっぱい美味しいものを食べて欲しかったんだと思う。

普段そういうわけにはいかないし、他の店だとお腹いっぱい食べさせることは金銭的に厳しく、某バイキングチェーン店であれば大抵のものは食べられるという理由から、パターンが決まっていたのだろう。

 

今思い出すと可愛くて笑ってしまう。

可愛いなあ、可愛い。

この間会った時にもう少し話しておけば良かったかな、なんて。

 

 

満腹になると眠くなるのが人間の性というもの。

眠い、とても眠い。

せめて入浴して、それから寝なければ......。

 

大阪万博で展示されていたらしい人間洗濯機、あれいくらくらいするんだろうなあ.......。

その他_逃げられない嬉しさ

ようやく昨夜から少しずつメンタルを持ち直し始めている。

 

ブログを開設した成果か、思考の整理がしやすくなった。

流石にこれは電子の海に流せないと没にする記事も多いのだが、それはそれで良い。

そもそも紙ではなく電子機器を使うことが多いのは、誤字脱字の修正のし易さ・話が前後してもコピーアンドペースト出来る・特定の相手に話す訳では無いが誰かに見てもらえる安心感、といった部分が大きい。

 

とはいえ、内容によってはやはり直接相談するべきだなと思うようになったのも事実だ。

 

 

 

昨日投稿した『教会+人間関係リセット癖』という記事の中で「教会に行くことが全てだとは思わないが、行きたくても行けないのは苦しい」と書いた。

そのことについてクリスチャンの方から反応を頂いた(ありがとうございます)。

 

『教会に行きづらかったら一人で祈るのも、ミサに行かないのも全然ありだと思いますよ。キリストは山ほどいろいろな説話を話しているし「外に出て行け」「行って、同じようにしなさい」「行って、神の国を宣べ伝えなさい」とは言うけれど、別に「教会の中で週一回委員会の活動を熱心にやりなさい」とは言ってないので。また気が向いたら教会に行ったらいいし、クリスマスやイースターだけミサに参加してもいいし、別に気にしないでいいんじゃないですかね』

 

最近の私は問題を発見すると解決に向けての試行錯誤を繰り返していて、割とそれで疲れやすくなっているというのも事実だ。

全部のことがそういうわけではないけれど、少しくらいはこのままで居てもいいと言われている気がして、泣いてしまった。

一人で祈ることも聖書を読むことも、その他関連著書を読むことも、自分の中でとても大切なことである。

なにより落ち着く時間なのだ。

今はそれを大切にしようと思った。

 

 

また、アドバイスに続いてこんな言葉も。

 

『主に呼び集められて集まるという本来の意味での教会、建物や宗教法人的な教会ではないなら必ず主が呼び集めてくださる』

 

なるほど、確かにそうだ。

というか、ここ数ヶ月悩んでいたことを発信して受けって貰えたこと自体に何か神様の意地悪(いい意味)を感じてしまうくらいだ。

「神様からは逃げられない」と牧師さんもよく言っていたし、私もそう思う場面が多々ある。

この件については「教会に行かなくなったくらいで逃れられると思うなよ」ということなのだろう。

 

 

 

今年の聖句は『シオンの再建』に関するものだった。

聖句って何?という感じだったのだが、感覚としては正月に引く神社のおみくじのようなものだと思う、多分。

意味や背景がよくわからなくて牧師さんに聞いた覚えがあるが、今回の件もあって詳しく知りたくなってきた。

 

ということで、今日は少しずつイザヤ書を読み進めている。

聖書を読むとなると尚更ひとりの限界を感じるが......。

その他_エンゲル係数

エンゲル係数

小説家である有川浩の著書「ストーリーセラー」を読んでいて知った言葉だ。

 

日中ほとんど寝て過ごしたせいで、一睡もせずにこの時間になった。

また昼夜逆転してしまったなあ......と少々げんなりしつつ、Twitterのフォロイーでもトップ10に入るくらいに好きな方がはてなブログで執筆しているようなので、この機会にと読むことにした。

 

記事を読んでいると、エンゲル係数という言葉を久しぶりに見かけた。

この言葉を自然に使える人を見ると気分が高揚するし、自分が広い意味で好意を持っている人なら尚更だ。

 

いや、それだけ。本当にそれだけ書きたかった。

 

 

今日で連休が終わってしまう。

明日のためにも今日で生活リズムを戻さなければいけない。

元々夜型なのか、昔から気を抜くとすぐに昼夜逆転してしまう。

中学高校と、授業中は8割型居眠りをしていてよく叱られたものだ。

今思えばきちんと勉強しておくべきだったのだけれど。

 

仮眠をとって、今日は少し活動量を増やそう。

今夜はきちんと眠らないとね。

その他_教会+人間関係リセット癖

昨年。

クリスマス前の主日礼拝で洗礼を受けた。

 

私の中にあるのは信仰心というより、欲。

教会という場所と牧師さんとのお話が救いだった。

私は素直に泣くことが出来る家を求めている。

 

しかし当然ながら教会は皆の家であり、そこに交流も生まれてくる。

最初は穏やかな人間関係をと努力した。

また、皆との交流が楽しくもあった。

私は家族の中で一人だけクリスチャンという形だが、ほとんどの人は真逆の境遇のようだった。

会話をしているだけで驚くことも沢山あったし、純粋に勉強になることもあった。

聖歌隊の練習や青年会の行事も楽しかった。

 

最近の私は、それらを息苦しく思うようになった。

誰かと会うことになると思うと、ミサすら行けない。

私はひっそりと教会に行くようになった。

行ったとしても、人が居るのを確認した場合即座に引き返してしまう。

そのことが悲しくて、行きたくても行かないという選択をすることが増えた。

 

別に教会(もしくはミサ)に行くこと全てだとは思わないけれど、行きたくても行かないまたは行けないという状態が続いているのは苦しい。

 

最初は「安心出来る場所」「素でいられる場所」であった教会で、「他者に自分を演じ」始めたことが原因だという気もする。

大袈裟に言うと一度「嘘」を吐いてしまえば、「嘘」を重ねる他ないからだ。

当時はそれをなんとも思ってなかったのかもしれないが、今の私には苦痛で仕方がない。

 

よくよく考えると、教会のみならず人間関係全体においても同じことが言える。

私の短所に「人間関係リセット癖」がある。

私の場合は「出会った当初の自分を演じ続けなければならない」「変わってしまった自分なんて見せられない」という気持ちからきている。

そんな気持ちで人と関わっていれば、次第に八方塞がりになり息苦しさを覚え始め、最終的には限界が来る。当然だ。

そうなると、プライベートも仕事も、更に言えばインターネット上ですら、全てを「リセット」しなければという強い衝動に駆られてしまう。

 

最近は何に対しても「リセット」しなければという衝動や焦りでいっぱいで、安心出来る場所がない。

どうしたものかと考えてはいるけれど、解決策が思い浮かばない。

先程述べたようにこれは私の欠点であると自覚しているので、直したいのだ。

 

こういうことこそ、誰かに相談するべきなのだろう。

ひとり、聞いて欲しいと思える人が浮かんだけれど、最近はその人に頼りすぎている気がする。

依存対象は分散するべきだ。

かといって、その人以外となると、聞いてくれるであろう人は浮かんでも相談の仕方がわからない。

 

ぐるぐると考え込んでも仕方がないのだが。

映像_「千と千尋の神隠し」に関する雑談

金曜ロードショー

今日はスタジオジブリの「千と千尋の神隠し」が放送されるということで、何度も観ているし今回は観なくてもいいかな…と思っていた。

出来るだけ部屋から出たくなかったから......。

21時を回った頃にTwitterを開いたら、フォロワーさんが「神木隆之介の赤ちゃんボイス」とつぶやいていて、神木隆之介が声優として出演していることを思い出した(ありがとうございます)。

神木隆之介は私が初めて好きになった俳優で、今でも一番好きだ。

もちろん、即テレビをつけた。

 

 

千と千尋の神隠し」は小学生の頃から毎年のように観ている気がする。

昔はなんとなく観ていた部分も、年々解釈や感想が増えていく。

前回金曜ロードショーで放送されたときも視聴し、「もしかしたらキャラクターごとに人間の欲望を象徴しているのでは?」と思ったので、今回はそれを踏まえて観ていた。

今回一番印象に残ったキャラクターはカオナシ

 

カオナシの台詞といえば殆どが「ア」である。

それ以外で個人的に引っかかる台詞は「千が欲しい」「寂しい」「千は何が欲しい?」だった。

ここからしばらくは私の解釈が強く入るので、書いていると〜だと思うを多用してしまったのだが、うざったいのでそこは省略する形で修正した。

 

作中でカオナシが生み出す金は、金に見せかけた泥だ。

寂しさゆえに他人が食いつきそうな物を与えたとしても、結局与えている物はまやかしでしかないということだろう。

 

他人の都合が良いように振る舞い、縋り付き、自分の寂しさを埋めるやり方___自分を見せずに他人に縋ろうとするのは、自分の空っぽな部分を他人で満たそうとするから。

自分が与えた物を相手が拒むと怒り狂う___相手に与えている物はイコール自分、つまり自分が拒絶されたと考え「どうして!こんなにもあなたを思っているのに!自分はこんなにも良い子でいるのに!」といった感じで、態度を一変し相手を糾弾する。

 

カオナシを見ていると私自身を見せつけられているようで、とても頭が痛い。

私もカオナシと同じで、「他人に自分の中身を見せない」「あるのは身体、寂しいという強い感情や相手を手に入れようとする欲望」「顔、つまり相手を思う気持ちや本来の自己主張に欠けている」のだ。

 

せめてこういうやり方で縋ろうとするのではなく、自分の空っぽな部分を認めて自分で埋めていく上で、相手と何かを築こうとするのであれば、少しは違ってくるのかもしれない。