地中海を越えて

生活記録.自己表現練習.執筆リハビリ

日記_2019.8.22 ✍︎

先週から頭の中を支配している希死念慮と、一晩中向き合っていた。

死について考えていると、短時間でこれでもかというくらい不安定になる。

しかし、なぜか考え込むことによって安心するようで、結果としていつも「死ぬのはまだ先でいいか」と思ってしまうのだ。

 

最近は何か大きなことが起こったわけではないが、よく考えてみると小さなことが限界まで積み重なっているように思えた。

自分のこと、病気のこと、家族のこと、仕事の事、将来のこと、恋愛のこと、etc…

普段なら難なく解決できることも、条件下によっては苦しいものとなる。

 

 

まず、私は苦しみの原因をひとつずつ覗き込んだ。

涙が止まらなかったけれど、そんなことは気にならなかった。

 

次に、どうすれば確実に死ねるかを考えた。

これまでの失敗から、詰めの甘さが原因であることは明白だ。

どこを改善すれば死ねるかなんて、わかりきっている。

 

そして、死ぬまでにやりたいことを考えた。

死後は屋久島に散骨して欲しいけどそれは無理そうなので、死ぬ前に誰にも読まれない遺書でも書いて、小瓶につめて海に流したい。

水の中を揺蕩いながら旅をしてみたいから、それを遺書に託してしまおうか、なんて。

 

最後に、自分の死後のことを考えた。

人間は誰もが誰かの寄せ集めで出来ているので、誰もが交換可能なパーツでしかない。

私の死を悲しんでくれる人はいるかもしれないけれど、時間と共に忘れてきっと元の生活に戻ってくれる。

自分の死後のことは極論他人のことだからと言い放った元恋人の感覚は、もしかするとこんな感じなのかもしれない。

 

 

遺書を書くということは、意外と生き延びるための良い手段らしい。

特に親しい人やお世話になった人に向けて書くと、生きることを前向きに考えるようになるそうだ。

そういった理由で、インターネット上にも遺書サービスは溢れている。

 

擬似的な死を迎えようと決めた。

好きなレターセットを買って、珈琲を飲みながら遺書を書こう。

あとは好きな小瓶に入れて海に流すだけ。

自分の中のものを限界まで抱き締めた上でそっと手放す儀式。

布団から出られるのかは微妙だが、ここで腐っているより何かしら自分が楽になれる方法を試してみる方がマシだろう。たぶんね。