地中海を越えて

生活記録.自己表現練習.執筆リハビリ

その他_教会+人間関係リセット癖

昨年。

クリスマス前の主日礼拝で洗礼を受けた。

 

私の中にあるのは信仰心というより、欲。

教会という場所と牧師さんとのお話が救いだった。

私は素直に泣くことが出来る家を求めている。

 

しかし当然ながら教会は皆の家であり、そこに交流も生まれてくる。

最初は穏やかな人間関係をと努力した。

また、皆との交流が楽しくもあった。

私は家族の中で一人だけクリスチャンという形だが、ほとんどの人は真逆の境遇のようだった。

会話をしているだけで驚くことも沢山あったし、純粋に勉強になることもあった。

聖歌隊の練習や青年会の行事も楽しかった。

 

最近の私は、それらを息苦しく思うようになった。

誰かと会うことになると思うと、ミサすら行けない。

私はひっそりと教会に行くようになった。

行ったとしても、人が居るのを確認した場合即座に引き返してしまう。

そのことが悲しくて、行きたくても行かないという選択をすることが増えた。

 

別に教会(もしくはミサ)に行くこと全てだとは思わないけれど、行きたくても行かないまたは行けないという状態が続いているのは苦しい。

 

最初は「安心出来る場所」「素でいられる場所」であった教会で、「他者に自分を演じ」始めたことが原因だという気もする。

大袈裟に言うと一度「嘘」を吐いてしまえば、「嘘」を重ねる他ないからだ。

当時はそれをなんとも思ってなかったのかもしれないが、今の私には苦痛で仕方がない。

 

よくよく考えると、教会のみならず人間関係全体においても同じことが言える。

私の短所に「人間関係リセット癖」がある。

私の場合は「出会った当初の自分を演じ続けなければならない」「変わってしまった自分なんて見せられない」という気持ちからきている。

そんな気持ちで人と関わっていれば、次第に八方塞がりになり息苦しさを覚え始め、最終的には限界が来る。当然だ。

そうなると、プライベートも仕事も、更に言えばインターネット上ですら、全てを「リセット」しなければという強い衝動に駆られてしまう。

 

最近は何に対しても「リセット」しなければという衝動や焦りでいっぱいで、安心出来る場所がない。

どうしたものかと考えてはいるけれど、解決策が思い浮かばない。

先程述べたようにこれは私の欠点であると自覚しているので、直したいのだ。

 

こういうことこそ、誰かに相談するべきなのだろう。

ひとり、聞いて欲しいと思える人が浮かんだけれど、最近はその人に頼りすぎている気がする。

依存対象は分散するべきだ。

かといって、その人以外となると、聞いてくれるであろう人は浮かんでも相談の仕方がわからない。

 

ぐるぐると考え込んでも仕方がないのだが。