地中海を越えて

生活記録.自己表現練習.執筆リハビリ

その他_逃げられない嬉しさ

ようやく昨夜から少しずつメンタルを持ち直し始めている。

 

ブログを開設した成果か、思考の整理がしやすくなった。

流石にこれは電子の海に流せないと没にする記事も多いのだが、それはそれで良い。

そもそも紙ではなく電子機器を使うことが多いのは、誤字脱字の修正のし易さ・話が前後してもコピーアンドペースト出来る・特定の相手に話す訳では無いが誰かに見てもらえる安心感、といった部分が大きい。

 

とはいえ、内容によってはやはり直接相談するべきだなと思うようになったのも事実だ。

 

 

 

昨日投稿した『教会+人間関係リセット癖』という記事の中で「教会に行くことが全てだとは思わないが、行きたくても行けないのは苦しい」と書いた。

そのことについてクリスチャンの方から反応を頂いた(ありがとうございます)。

 

『教会に行きづらかったら一人で祈るのも、ミサに行かないのも全然ありだと思いますよ。キリストは山ほどいろいろな説話を話しているし「外に出て行け」「行って、同じようにしなさい」「行って、神の国を宣べ伝えなさい」とは言うけれど、別に「教会の中で週一回委員会の活動を熱心にやりなさい」とは言ってないので。また気が向いたら教会に行ったらいいし、クリスマスやイースターだけミサに参加してもいいし、別に気にしないでいいんじゃないですかね』

 

最近の私は問題を発見すると解決に向けての試行錯誤を繰り返していて、割とそれで疲れやすくなっているというのも事実だ。

全部のことがそういうわけではないけれど、少しくらいはこのままで居てもいいと言われている気がして、泣いてしまった。

一人で祈ることも聖書を読むことも、その他関連著書を読むことも、自分の中でとても大切なことである。

なにより落ち着く時間なのだ。

今はそれを大切にしようと思った。

 

 

また、アドバイスに続いてこんな言葉も。

 

『主に呼び集められて集まるという本来の意味での教会、建物や宗教法人的な教会ではないなら必ず主が呼び集めてくださる』

 

なるほど、確かにそうだ。

というか、ここ数ヶ月悩んでいたことを発信して受けって貰えたこと自体に何か神様の意地悪(いい意味)を感じてしまうくらいだ。

「神様からは逃げられない」と牧師さんもよく言っていたし、私もそう思う場面が多々ある。

この件については「教会に行かなくなったくらいで逃れられると思うなよ」ということなのだろう。

 

 

 

今年の聖句は『シオンの再建』に関するものだった。

聖句って何?という感じだったのだが、感覚としては正月に引く神社のおみくじのようなものだと思う、多分。

意味や背景がよくわからなくて牧師さんに聞いた覚えがあるが、今回の件もあって詳しく知りたくなってきた。

 

ということで、今日は少しずつイザヤ書を読み進めている。

聖書を読むとなると尚更ひとりの限界を感じるが......。